本名アリッサ・ロウゼンバウム?
(ロウゼンバウムって、ユダヤ系ロシア人の名前だったりもしたのか…例のスーパーマンの友達のマイケルも、ユダヤ系だったりするのだろうか…)
はあーっ。
『水源』(原題:The Fountainhead)
半分まで読んだところで残りを読み終えてしまうのが惜しくなり、しばらく封印していましたが、ここ数日再び我慢できずに手をつけ、今日の午後のほとんどを費やしてついに読み終わってしまいました。
先日の日記では、この小説が書かれたのは100年前くらいなどと書いたのですが、落ち着いてあとがきを読んでみると、ランドはこの作品を7年がかりで書き上げ、12の出版社に拒絶された後、ついに出版されたのが1943年、ということで、当初の私の思い込みよりは(三十年ほど)最近に書かれたものであったことがわかりました。(映画は1949年だとか)
映画にしても小説にしても、鑑賞や読書の前に事前にあまり下調べをしないタイプの人間なもので…こんな間違いばかりで恐縮です。
それにしても60年以上前に、書かれたということなのですね。
でも、この本!最後まで読んでも、本当に面白かった!
この後は、読み終わった直後の興奮状態のまま思いつくままに感想を少し書こうと思いますので、もし今後じっくりこの『水源』という本を読んでみようと思っている方がいらっしゃいましたら、内容のネバタレに触れる可能性がありますので、閲覧ご注意ください。
この『水源』という本、このところハーレクインに近いロマンス小説などを中心に気楽に読書をしていた私にとっては、あまりに手強そうな印象だったので、とりあえず大まかな概要を掴んで様子を見るためにも、なんとかゲイリー・クーパー&パトリシア・ニールが主演したという映画『摩天楼』を見られないだろうかと、レンタルや中古DVDなどを探してみたのですが、私の身近ではどうしても見つからず、結局本を読み始めることにしてしまったのでした。
現在の一番の感想は、先に映画を見なくてよかったー、というもの。
そして多分、映画『摩天楼』、今後も見ることはない、かなーという感じ。
摩天楼という映画に関しては、この本のハーレクイン的側面のみを抽出してつくられたような映画であるというような評をどこかで読んでしまったことがあり、それはそれできっとロマンチックな作品に仕上がっているのだとは思いますが、
どうせ映画としてみるなら、やっぱりドミニクとの恋模様よりは、ハワード・ロークの(本人だけはどこ吹く風、であるとはいえ)苦難続きの人生の中で、ロークが関わってきたそれぞれに個性的な男達との関係性に焦点をあてたものを見てみたいです。
Jared Padaleckiさんがいずれ本当にハワード・ロークを演じてくれるならばなおさら!そう思います。
この本のあとがきに、
『…アイン・ランドの本を読むことは(現在でも)知的なアメリカの若者にとっては通過儀礼なのだ。…』
なんていう一文がありましたが、
そんなアメリカの知的な青年の一人であるJared君。
お母さんは先生なのだし、もちろん
ゲイリー・クーパーの演じた『摩天楼』を見て、ではなく
ランドの原作小説をじっくりと最後まで通読した上で、
このハワード・ロークという役を演じて見たいとコメントしたのですよね?
Supernaturalというドラマで、Jensen兄ちゃんとの数々のエモバトルを乗り越えてきた今なら、
ピーター・キーティングや、ヘンリー・キャメロンや、スティーヴン・マロリーや、もちろんゲイル・ワイナンドとの
微妙な男同士の関係を上手に表現できるはず、だと思ったということよね?
そう考えるとJaredは、SupernaturalでSamという役を演じて来たことで、自分の役者としての成長にかなりの手ごたえを感じているのだなー、という感動のような気持ちすら湧いてきます。
☆
この水源という小説。
ハワード・ロークのような天才が古来から晒され続けてきた、トゥーイーに代表される善意を隠れ蓑にした人間社会のある意味での究極の悪についての、
「いい人だと信じて全てのガードを下げさせられた挙句に、気付いた時には信頼していたその当人から取り返しのつかないところまで破滅させられてしまっている」
(そんな恐ろしい悪すらもロークはどこ吹く風で受け流してしまうのだけれども)
というような、どうにもやりきれないやるせなさに息が詰まってくるような描写を延々と読んでいくのは確かに辛いし(中でも駄目人間の凡人の代表として描かれたピーターの境遇と感情描写に、凡人の一人として、どうも他人事とは思えないような共感を感じてしまった自分もちょっと辛い。ピーターをあそこまで貶める必要あったの?)、その意味では読み進める上で大変手強い小説と言えるかもしれません。
でも60年以上も前に書かれたことを感じさせないほどに、ロークと彼を取り巻く友人達の感情表現はとても自然かつ新鮮で、
キーティング&ローク、
キャメロン&ローク、
マロリー&ローク、
ワイナンド&ローク
等々といったそれぞれのシーンには、何度も遡って読み返したくなるような切なさとほのぼの感とでもいった雰囲気が溢れています。
ロークというのは、全く他人と相容れない、とにかく現実離れした極端な性格のキャラクターで、おそらくは作者であるランドが考える、究極に綺麗な人間というものの理想を形にしたものなのだと思いますが、
そんなロークと出会い、どうしようもなく惹かれて、ロークの傍を離れられなくなった男達に対しては、ロークはどこまでも寛容で、とても人間的に見えて、私がこの小説に強い魅力を感じるポイントは主にそんなところにあると言っても過言ではないかもしれません。
でもそんな主要登場人物の中の、ロークに存在を認知される唯一の女性であるともいえる、ドミニクに関してだけは、作者のランドがそのキャラクターに一切のブレを許そうとせずに、非常な努力の末に作り上げた彫刻であるように感じるのです。
上に名前を挙げたような男性キャラクターが皆(天才であれ、駄目人間であれ)生き生きと新鮮な存在感を示しているだけに、ドミニクの描写やドミニクの感情だけが、妙に前衛美術的な印象で、洗練さを追求するあまり却って人間味を失って浮いてしまったってことなの?なんていう風に感じたのがちょっと残念な気もしました。
そんな作者の呪縛のようなものから逃れてドミニクが生き生きと行動を始め、自由な感情をむき出しにし始めると、すぐにそんなドミニクの作者の予定にない感情の全てを抑えつけるかのように、彼女に抽象画のような理屈を語らせたり、綺麗ごととしか思えないような行動をとらせたり、しているような気がして、
女性であるランドは、同性であるドミニクのことが好きではなかったのか…、
女性の地位の向上のため、女の強さや崇高さを極限まで高めてみたいと思い、それをドミニクというキャラクターに反映させたということだったのか…。
こうしたドミニクの扱いは残念ながら結局最後まで貫かれていましたよね。
(ワイナンドとの結婚以降、かなり無理な描写が減ったようにも思えていたのに…)
ランドとしては、当初自分の立てたプロットの結末を理想として意固地なまでにそれに従っただけということなのかもしれず、また、ああした終わり方によって、ハワードとゲイルの間の友情というか愛情が最高の形で結晶し、光り輝くことになったと解釈することもできるのでしょうが、
(この時代のアメリカで、あきらかにゲイを示唆する関係でハッピーエンドを締めくくるわけにも行かなかったという事情ももちろんあったでしょうが)
ランドが物語の自由な流れというか、引力にまかせたとしたら、ドミニクとハワードとゲイルの関係は、もう少し違った形に収束していったのではないか、とも思うのです。
私としては、もう最後はすっきりとドミニクを自由にしてあげたらよかったのにっっ!!とも思いました。
(そうしたら、ドミニクはハワードとゲイルの仲を取り持って、自分も身を引かずにうまいこと三人でハッピーエンドなんていう美味しい選択肢を頑固な男性二人の前に差し出してくれたりしたかもしれないのに…)
最近日本では、どういうわけだか黒澤映画のリメイクがしきりにつくられていますけれども、
ハリウッドも他国でヒットした(もしくはヒットしそうだったりする)作品のリメイクばかりでなく、本国のこうした名作小説(映画)の斬新な切り口によるリメイクを作ってくれないだろうか…。
でも…、本物の『摩天楼』というものが生まれつつあった時代の、その『摩天楼』を成す高層ビルの建築が大きなテーマであるだけに、(作品が書かれたのとほぼ同じ時代に作られたクーパーの『摩天楼』とは違い)まだ本格的に高層ビルが立ち並んではいない70年前のニューヨークの町並みをCGとセットで完全再現するような大作映画となると、Padalecki氏にオファーがこない、という可能性も考えられるのか…。
でもJaredの演じるハワード・ロークを見たいっっ!!!ぜひとも!
ロークが大学を退学になるあの日を描いたアノ冒頭のシーンだけでも…Jaredを使ってカメラテスト的に…、どうでしょう…撮ってもらえませんか?
もしくはゲイルとローク、二人っきりの数ヶ月に渡る豪華クルーズ旅行のシーンでも…。
ゲイル(他人に恐れを抱かせるような貴族的な容姿)って、誰がいいんだろう…、と(私の頭の中の乏しい俳優さんリストをめくって)考え巡らせていたら、少し前に(え、もう半年前になるの?)ケーブルで見た映画『デッドゾーン』のジョニーを演じていたクリストファー・ウォーケンが浮かんで来ました。
小説の中のゲイルは五十代だったけど、クリストファー・ウォーケンって今何歳くらいなんだろう。
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